はじめに
カーテンのない部屋で過ごしたことがあった。大学を卒業して関東に引っ越しをする前日で、荷物をすべて新居に送ってしまったためだった。とても居心地が悪かった。そのときの部屋は、アパートの入り口の真横だったから、アパート前から丸見えだった。僕が何もない部屋で過ごしているのを、アパートに出入りする人たちが、チラチラと覗きながら通過していった。見られるたび、僕のプライバシーは部屋の隅に追いやられ消えた。
世間の目をうかがって生活スタイルを変えるのは癪なので、いつもどおり平然と過ごしてやろうと考えた。どうせ明日にはこの街を発つのだから、何を恥じることがあるだろう。そう思った。 堂々と部屋の中で過ごす。窓の外を人が通過していくのも気にしない。
でも、時間とともに冷静になった。やっぱり恥ずかしかった。仕方ないので、押し入れの中で過ごすことにする。中は、狭く、暗かった。たまに押し入れから出たタイミングで、人と目が合って気まずい思いをした。
このブログを作りながら、そのときのことを思い出した。あの日の僕は、動物園の檻の中にいるみたいで、嫌だった。自分の生活が不特定多数の人間に見られていることなんて、そうそうない。
生活を見られると恥ずかしく、居心地が悪いのはなぜだろう? 特に変なことをしているわけではないのに。ゴロゴロしながらスマホをいじって、本を読んで、夜になったらコンビニで買ったおにぎりを食べる。やったのはそれくらいで、誰だってこんな生活を送っているはずだ。珍しいものではなかった。
ひとつだけ異なっていることがあるとしたら、それは選択可能性だった。カーテンのない部屋で「何をしたか」自体は別になんでもないことだけど、「何ができたか」に関しては大きな違いがあった。もし、カーテンがあったなら、逆立ちしながら部屋の中を歩き回ることだって、聴いている音楽に合わせて激しく踊り狂うことだってできたはずだ。その空間は私的な空間だから。でも、カーテンのない部屋は、公的な場に開かれてしまっていて、逆立ちやダンスは(常識的に考えて)できない。
だから、おそらく、あのとき感じていた恥ずかしさは、自分のしている行為に対してではなく、あらゆる行為を実施し得る状態、が晒されていることの恥ずかしさであり、あのとき感じていた居心地の悪さは、あらゆる行為を実施し得るはずの生活なのに、その選択肢を奪われていることの居心地の悪さだった。
話は変わるけれど、何か面白いことを思いついたような気がしてSNSで呟こうとするのに、入力し終えて、もう一度見返そうと思った時にふと、冷めた気持ちになる。この言葉は一体誰の言葉なのだろう、と疑問が浮かび、文章を全て消してしまう。もちろん僕が呟こうとしている言葉なのだから、僕の言葉のはずだ。でも、どこか違うと感じる。
呟かれた言葉はいいねやリツイートの力によってエンパワーメントされて、どこか遠くまで飛んでいく(ことがあり得る)。半径五メートルくらいに届けばよいと考えていたものが、三十メートルくらい先まで届いてしまうとき、そこまで到達させているのは明らかにいいねやリツイートや、アルゴリズムの力だ。その力は僕とはかけ離れたところにあって、発した言葉が意図とは反対にどんどん外側に意思を持ったかのように向かっていく。
そのスケールの違いにいつも驚く。後から、言いたかった言葉は、こんなに多くの人(といっても数十人)の目に触れるべき内容だったか? と思う。本当に個人的な、しょーもないことを呟いたつもりでも、想定以上に社会化されてしまう。ひどいときは「このテレビつまらない」みたいな軽いツイートが炎上の一旦を担ってしまうようなこともある。
だから、SNSで呟くときは必ず、誰に見られても問題ないようにしているけれど、そんなものはもはや呟きなのかどうかわからない。誰が見てるか、見てないのかを気にしないで、無防備に発せられた言葉だから呟きなのであって、誰かに見られることが確定している状態での言葉は発信だ。
(2010年代の前半は「呟く」という言葉が頻繁に使われていたのに、いつからか「発信」という言葉が使われるようになったのはこういう背景なのかも、と書いていて思った。)
それはカーテンのない部屋に似ていると思った。生活が公の場にさらされること、呟いたことが社会化されること。生活が透明化して公の場にさらされたとき、社会的な自己のまま送る生活は個人をマネキンみたいにしていくし、それは規模は違えどSNSで発信することもそうなのだ、と思う。そして、個人の領域が消えていき、公共化されていく。悪いことではないとは思うけれど、なんとなくそれとは別の回路が一つ欲しいと思った。
なので、個人ブログを立ち上げることにした。がんばって作った。ここには、いいねも、リツイートも、アルゴリズムもない。書いたことが自分の意図を超えて拡散されるようなことは極めて起こりにくい。だから、誰が見てるか、見てないのかを気にすることはない。ここでは、読まれても読まれなくてもいい文章を書くし、書いても書かなくてもいい文章を書く。そのため、そんなに重要な情報はないです。読むときは、近所の高校の文化祭のポスターみたいに、通りかかったときに横目でチラリと盗み見るみたいにして、読んでください。