見えざる手
郵便受けを覗いたら、鮮烈な黄色が目に飛び込んできた。封筒だった。色付きの封筒は危ないとどこかで聞いたことがあり、何かをやってしまったのだとそのとき知った。おそるおそる開封してみると、水道料金を滞納していると書いてあった。
度々、こういったやらかしをするけれど、もう慣れてしまった。以前、クレジットカードを滞納したことがあり、そのときはかなり焦って対応した記憶があるけれど、今回はなんの心の揺れもなかった。そういえば、学生時代の試験とかもそうだったな、と思う。入学したてのときは定期テストのために頑張って勉強するけど、数年したら最低限で済ませて、勉強できなくてもまあいいかと諦めてしまう。
社会人として生活するのにも慣れてしまったのだと思ったが、慣れれば慣れるほど堕落していくのはなんなのだろう。滞納はダメなことなので、悪びれるのが正しいのかもしれない。でも、やはり何も思えず、手に持った滞納の通知書を壁を眺めるようにぼんやり見つめながら、「あーあ」と冷めた気持ちになる。社会、と思う。こういう悪いことをした時にだけ、自分が社会の一部に組み込まれている気がする。
一月に送付した請求書でコンビニ支払いができる、と書いてあるけど、そもそも請求書が届いておらず、届いていたとしても失くしてしまっており手元にないので、直接支払いに行くことにする。時間休を取ってお昼ごろに家を出る。
外は晴れていて、雲のない青色の空だった。歩いていると、三月になり徐々に春に近づいてきたのか、少し汗ばんだ。
ふと見上げると、街の上に、赤と白の建設用クレーンが高く屹立していた。いつも同じ角度を向いているな、と思う。動いているように見えないけれど、その下の建築物は着々と背を高くしているので、僕の知らないところで動いてはいるらしい。
僕は社会人になってから都会に来たわけだけど、街が生き物みたいに動いているのを肌で感じる。田舎の変化はたまに帰省したときくらいしか感じることができないが、都会は違う。新しいマクドナルドができたり、本屋が潰れたり、ということが身近なところで目にみえる速度で起きている。
でも、それは決して自動で行われている作業ではなく、誰かがやっていることだ。この建設現場もそうなのだと思う。自分の知らないところで作業員の人たちは汗を流しながら働いている。たぶんいろんな作業員の人がいて、上司にムカついたり、ゲームをしたいから早く帰りたかったり、ものすごくやりがいに満ちていて、残業すら厭わない人がいる。いろんな人がいて、いろんなことが行われていて、都会にいるとそれが体感として入ってくる。
ふと、作業員の人たちの手が思い浮かんだ。たぶん、黒く汚れた手袋に覆われていて、その中はマメができている。その手から手へと鉄骨は受け渡され、組み上げられ、建物は少しずつ高く伸びていく。一つの建物は無数の手によって作り上げられる。その様子を想像してみる。手から手へ。手から手へ。そして、少しずつ手は増え始め、大量の手が蛇みたいに蠢く。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃと蠢く。その絵が思い浮かび、気持ち悪いと思った。手が気持ち悪いのではなく、それが無数にあることが気持ち悪いと思った。
ある一つのものが、見えない無数の手によって支えられていることが怖い。すれ違ったおばあさんにも手がついていた。小さなバッグを持っていた。すれ違った少年にも手がついていた。DS(たぶん3DS)を持っていた。気づけば街は、マメができてたり、少し小さかったり、あるいは親指が異様に太いなどの、さまざまな手に覆われていて、その手が僕の家に、amazonで注文した無印良品の乳液や、水道料金の請求書を運んでくる。段ボールに梱包する人や、パッケージを一つ一つ確かめたりする人、配達する人にも手がある。その手は箸を持ったり、神社でお祈りしたり、人を殴ったりする。その、普段意識することはないリアリティが迫ってきた。僕と同じくらいリアルに生きている人が、石の裏に潜むダンゴムシみたいにこの街には大量に存在している。急に、地面のコンクリートを突き破って、無数の手が生えてきて、うじゃうじゃと踊っているような気がしたので地面を見たけど、何もなかった。
はじめに
カーテンのない部屋で過ごしたことがあった。大学を卒業して関東に引っ越しをする前日で、荷物をすべて新居に送ってしまったためだった。とても居心地が悪かった。そのときの部屋は、アパートの入り口の真横だったから、アパート前から丸見えだった。僕が何もない部屋で過ごしているのを、アパートに出入りする人たちが、チラチラと覗きながら通過していった。見られるたび、僕のプライバシーは部屋の隅に追いやられ消えた。
スマホなどをいじったり、本を読みながら過ごしても、どうしても集中できない。窓の外に誰もいない状況であっても、透明な視線が、冷気のように部屋に侵入してくる。そうすると、ふっと我に返ってしまう。まるで動物園の檻の中にいるみたいで、窓の外には「人間」と書かれた看板が設置されていてもおかしくないような気がした。動物園の動物はこんな気持ちだったのだとそのとき思った。
窓から見えないところで過ごせばいいのだけど、世間の目をうかがって生活スタイルを変えるのは癪だった。だから、いつもどおり平然と過ごしてやろうと考えた。どうせ明日にはこの街を発つのだから、何を恥じることがあるだろう。そう思った。 堂々と部屋の中で過ごす。窓の外を人が通過していくのも気にしない。ただ、読んでいる本に集中する。本に集中する。
でも、時間とともに冷静になった。やっぱり恥ずかしかった。仕方ないので、押し入れの中で過ごすことにした。かがんで、暗い押し入れの中に入った。狭かった。胎児のような格好をしながら、スマホを触った。たまに押し入れから出たタイミングで、人と目が合って気まずい思いをした。
このブログを作りながら、そのときのことを思い出した。
生活を見られると恥ずかしく、居心地が悪いのはなぜだろう? 特に変なことをしているわけではないのに。ゴロゴロしながらスマホをいじって、本を読んで、夜になったらコンビニで買ったおにぎりを食べる。それくらいしかしてない。カーテンのない部屋において、僕が取った行動は極めて小市民的なものであり、その点において何かバッシングを受けるような要素は一つもなかったはずだ。そうであるなら、何も恥じるべきことはなかったのかもしれない。
でも、カーテンのない部屋で過ごすことに決定的に欠けているものがあった。それは選択可能性だった。カーテンのない部屋で「何をしたか」自体は別になんでもないことだけど、「何ができたか」に関しては大きな違いがあった。もし、カーテンがあったなら、逆立ちしながら部屋の中を歩き回ることだって、聴いている音楽に合わせて激しく踊り狂うことだってできたはずだ。その空間は私的な空間だから。法律に触れなければ一応何をしてもいいのが私的空間だ。でも、カーテンのない部屋は、公的な場に開かれてしまっていて、逆立ちやダンスは(常識的に考えて)できない。そういった意味で、カーテンのない部屋は、選択可能性がなかった。僕は悪い人や変な人にはなることができず、小市民として振る舞うことを(カーテンがある部屋よりは)強制されていた。
だから、おそらく、あのとき感じていた恥ずかしさは、自分のしている行為に対してではなく、あらゆる行為を実施し得る状態、が晒されていることの恥ずかしさであり、あのとき感じていた居心地の悪さは、あらゆる行為を実施し得るはずの生活なのに、その選択肢を奪われていることの居心地の悪さだった。
話は変わるけれど、何か面白いことを思いついたような気がしてSNSで呟こうとするのに、入力し終えて、もう一度見返そうと思った時にふと、冷めた気持ちになる。この言葉は一体誰の言葉なのだろう、と疑問が浮かび、文章を全て消してしまう。もちろん僕が呟こうとしている言葉なのだから、僕の言葉のはずだ。でも、どこか違うと感じる。
呟かれた言葉はいいねやリツイートの力によってエンパワーメントされて、どこか遠くまで飛んでいく(ことがあり得る)。半径五メートルくらいに届けばよいと考えていたものが、三十メートルくらい先まで届いてしまうとき、そこまで到達させているのは明らかにいいねやリツイートや、アルゴリズムの力だ。その力は僕とはかけ離れたところにあって、発した言葉が意図とは反対にどんどん外側に意思を持ったかのように向かっていく。
そのスケールの違いにいつも驚く。後から、言いたかった言葉は、こんなに多くの人(といっても数十人)の目に触れるべき内容だったか? と思う。本当に個人的な、しょーもないことを呟いたつもりでも、想定以上に社会化されてしまう。ひどいときは「このテレビつまらない」みたいな軽いツイートが炎上の一旦を担ってしまうようなこともある。
だから、SNSで呟くときは必ず、誰に見られても問題ないようにしているけれど、そんなものはもはや呟きなのかどうかわからない。誰が見てるか、見てないのかを気にしないで、無防備に発せられた言葉だから呟きなのであって、誰かに見られることが確定している状態での言葉は発信だ。
(2010年代の前半は「呟く」という言葉が頻繁に使われていたのに、いつからか「発信」という言葉が使われるようになったのはこういう背景なのかも、と書いていて思った。)
それはカーテンのない部屋に似ていると思った。生活が公の場にさらされること、呟いたことが社会化されること。生活が透明化して公の場にさらされたとき、社会的な自己のまま送る生活は個人をマネキンみたいにしていくし、それは規模は違えどSNSで発信することもそうなのだ、と思う。そして、個人の領域が消えていき、公共化されていく。悪いことではないとは思うけれど、なんとなくそれとは別の回路が一つ欲しいと思った。
なので、個人ブログを立ち上げることにした。がんばって作った。ここには、いいねも、リツイートも、アルゴリズムもない。書いたことが自分の意図を超えて拡散されるようなことは極めて起こりにくい。だから、(SNSよりは)誰が見てるか、見てないのかを気にせずに済む。海に浮かぶ手紙のようなもので、特定の誰か向かうことなく、届いたとしてもそれを知ることなく、無責任にぷかぷかと浮かぶ言葉を書くことができると勝手に思っている。そのため、ここでは、読まれても読まれなくてもいい文章を書くし、書いても書かなくてもいい文章を書く。そのため、そんなに重要な情報はないです。読むときは、近所の高校の文化祭のポスターみたいに、通りかかったときに横目でチラリと盗み見るみたいにして、読んでください。